このサイトの、佐藤(智子)の

インタビューを読んでいたら、
私の言葉として
「淘汰も解体も恐れてはならない」
と書かれていました。
そんな乱暴なことは
言っていないだろう、
と確かめたら、
その証拠として、
私の原稿入りの案内状を
見せられてしまいました(笑)。
確かに若い頃からずいぶん生意気な口をきいていました。
大学を卒業して地元に帰り、初めて出した日展に入選できたときのこと。
新聞社の取材を受けて
「落選したいと思って出品する人間はいないんだから、
受かって当たり前だ」と答えたのを今でも覚えています。
当時は地元に「○○さんを日展に入選させる会」なんてものが
存在していた時代でした。地域の方々による、作家の後援会ですね。
「去年は一審に通過したから、今年は二審通過が目標だ」なんて
何年も地道に挑戦している先輩方がいらっしゃるところで
青二才がこんな暴言を吐くものだから
「福島というやつは許せん」と睨まれたりしておりました(笑)。
また、当時は時代の流れからいっても、
抽象画がまぶしく見えた時期でしたから
「日展なんて時代遅れの、とんでもない集団」くらいに思っていましたし、
仲間とやったグループ展でも随分傲慢な姿勢でした。
坂手(得二)さんらと二人展や四人展を何回かやりましたが、
案内状すら出さない(笑)。貸し画廊でやっても、
売れなくてもいい、売る気もない、という態度でした。
さすがに今は、そんな高飛車な態度はとっていませんが、
それでも、師匠と弟子の馴れ合いの関係や、
何をやっても、「あの人は、○○先生の弟子だから、ごもっとも、ごもっとも」
と周囲に思われてしまうような癒着は好きではない。
変に「情」にかかわらんほうがいいのです。
そんな私でも、この年齢まで絵を描き続けることができたのは、
「どうも悪気は無いらしい」と周囲に思っていただけているからでしょうか(笑)。
何をやっても、人よりチョロくて、鈍い人間が、
一貫してチョロく、愚直にやってきた。
それを、「見る人は見てくれて」いたのでしょう。ありがたいことです。
(続きます)
構成/中原順子